【8月23日付】鳥取県被爆証言 浦田昌則(88) 広島で被爆

8月6日の朝、建物疎開に動員され、呉市の家から広島駅まで汽車に乗り、友人たちと比治山(爆心地から約2㌔)の指定地点に集合しました。当時、松本工業学校(現瀬戸内高校)1年生(13歳)でした。


 8時10分に整列し点呼、人数確認が始まりました。途中でまちがえてやり直しをしていたとき、後ろの方から小さな声で「何か落ちてきよる」という声が聞こえました。その瞬間、目の前が真っ白になり、私は左から熱線を浴びました。音は聞こえませんでした。「あっ」と思った後の記憶は気絶してありません。


 気づいたときは壊していた家の下敷きになっていて、身動きできず、「助けて」と大声で助けを求めました。兵隊さんのかっこうをした人がノコギリで材木を切って、手を引っ張って助け出してくれました。8時半か9時くらいだったと思います。周囲はほこりが舞い上がりもうもうとしていて、壁土の臭いがしました。


 その場を去ろうとしたら怒られて、「一緒に助けろ」と言われ、何人か友人を助けました。
 「もう行っていい」と言われて、4、5人でどっちに行こうか迷っていましたが、友人の提案で比治山に登ることになりました。


 比治山から見下ろすと全市ががれきの山になっており、呆然と見ていました。


 そのうち平常心を取り戻した友人が、「おまえ、やられとらあへんか」と言いました。
確かめると顔が膨れ、額と左のほほが火傷していました。服を見ると黄緑の服が茶色に焦げており、「おまえもだ」と確認し合いました。


 「これからどうしようか」という話になり、「家に帰らんといけん」「喉が渇いたな。水道を探そう」と皆で話し合って、比治山を国道2号線側に降りました。


 何とか水道栓を見つけて、水を飲もうとしたとき、近くにいた人から「飲まれん。飲んだら死ぬ」と言われ、飲むのを諦めました。


 家が近くの友人は歩いて帰りました。私は呉までは遠くて歩くのは無理だと、どうして帰ろうかと思案していました。


 そこへ呉の方から救護の兵隊を載せたトラックがやって来ました。その帰りに、トラックの運転手が声をかけてきたので、「呉まで帰りたい」と言うと「乗れ」と言ってくれて、トラックの荷台に乗って呉まで帰りました。


 4時頃に家に着くと、近所の人が「西の方でピカッと光ってドーンと音がした。広島がやられた」と言っていました。「何があったのか」と聞かれましたが、「自分もわからない」と答えました。2、3日後には「ピカドンにやられた」という話になっていました。


 その日のうちに母親が私を乳母車に載せて、病院に連れて行ってくれました。


 入院させてほしいと言ったところ「そんなの怪我のうちに入らんから通え」と言われました。周りを見ると、背中の皮がはがれて肉がむき出しのグチョグチョの人や、両肩からむけた皮を両手の指先にぶら下げている人がいて「これじゃ入院できん」と思いました。


 治療は、ボールに入った卵の黄身みたいな薬をはけで塗り、油紙をかぶせて包帯を巻くという簡単なものでした。


 その晩、目と鼻と口を除いて包帯でぐるぐる巻きにされ、飯も食えない状態でした。


 布団で寝ようとすると吐き気がして眠れなくて、母親に帯で柱にくくりつけてもらって座って寝ました。4、5日はそういう状態でした。


 3日か4日たって顔がかゆいので、母親に包帯を取ってもらうと、火傷した顔にいっぱいウジが引っ付いていました。


 母親にワリバシで毎日取ってもらった。夜取ってもらうと、幽霊におうとるようだと言われ、昼に取ってもらいました。毎日湧いたので全部取るのに7日か10日かかりました。


 母親は下宿屋をやっており、地元や島根の人が10人ほど下宿していました。今度は食べる物がなくなって、農家に行って着物と米を交換してもらっていましたが、それも尽きて、油を搾った後の大豆かすを焼いて食べましたが、食えたもんじゃない。


 下宿人には里に帰ってもらい、9月には父親の実家の鳥取県泊村(現湯梨浜町)に引っ越すことになりました。


 呉から姫路を通り播但線で和田山まで行って鳥取県に入りました。岡山も姫路も空襲で焼け野原になっていました。


 倉吉工業に転校し、保健所の検査で白血球が半分になっていると言われました。


 風邪をひくと2カ月も3カ月も治らず、怪我をするとなかなか血が止まりませんでした。私の体が弱いので、父が体を鍛えようとして近所の人に頼んで、夏休みには山の材木出しをしました。泊小学校の敷地の工事があったので、トロッコを押して体を鍛え、だんだんと体力がついてきました。


 学校通いは、包帯をとればケロイドの真っ赤な顔をしていて、負い目や引け目がありました。


 高校には6年通い、倉吉高校機械科の卒業となりました。


 卒業後は紡績機械をつくる会社に入って事務をしていましたが、教育長をしていた叔父さんに「ちゃんとしたところに就職しろ」と言われ、国鉄を受験することにしました。


 合格して吹田機関区に配属され、機関士助手を務めました。吹田、浜田の機関区を経て、鳥取機関区に機関士として配属になりました。


 国鉄民営化(1987年)のときに54歳で退職しました。鳥取機関区で助役をしており、職員に退職勧告をすることになりました。助役たちで話し合って「自分たちは50過ぎとるのに辞めてくれとは言えない」と退職することにしました。その後、別会社に勤めて定年退職し、親の代から受け継いだ田畑で百姓をしてきました。


 日本は唯一の被爆国ですから、被爆の実相を世界に示して核兵器を使おうとする国に対して、やめさせる役目があります。日本がやるべきことは、軍事力ではなく、話し合いと外交で紛争を解決することです。


 今の時代、核兵器を戦争で使うことはできないと思います。こっちが使えば相手も使うからです。小型化して使おうとする国もありますが、日本はそんな戦争に巻き込まれてはいけません。


 若い人には戦争について考えてほしいと思います。日本が戦争に巻き込まれたら、自衛隊だけではすみません。戦死したら補充しないといけない。徴兵制が敷かれることになります。


 核兵器禁止条約が国連で採択され、発効まであとカ国の批准となりました。発効すれば核兵器保有国は犯罪国となり、核兵器廃絶への大きな一歩となります。署名運動は大変ですけど、今後も続けていきましょう。