【9月13日付】「生産性」を巡って排除から共生へ(上)

人間が人間を排除する理論ーコロナ禍での「総障害者化」
鳥取短期大学幼児教育保育学科教授 國本真吾

 改めて言うまでもないですが、見えないウイルスとの戦いで、私たちの日常は大きく変化しました。今なお先が見えず、青息吐息な日々が続きます。先日、平井鳥取県知事が発した「私たちが戦わなければならないのは、ウイルス、病気であって人間ではありません」という言葉がメディアで取り上げられ、ネット上でも大きく拡散しました。


 自らが脳性まひの当事者である東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎准教授は、コロナ禍の状況を「総障害者化」と表現しています。「障害」は、かつて本人に帰属する「医学モデル」で考えられていましたが、現在では人間や環境といった周囲のあり方によって規定される「社会モデル」で捉えられています。コロナにより誰もが不便な生活を余儀なくされているこの状況は、障害の社会モデルで考えると、誰もが障害のある人と同じ状況にあるという趣旨です。


 そして、熊谷氏は「総障害者化の状況では、みんな余裕がなくなります。みんな余裕がなくなる延長線上には、自分以外の人々よりも自分のニーズを大切にするという形で、他者を排除する方向に総障害化が向かっていく可能性ももちろんあります」と、NHKの番組で語りました。


 鳥取県内で感染者の数が増えていくにつれ、様々な情報が耳に届くようになりました。それとともに、感染者に対する攻撃が起こっていることも分かりました。それは単なるバッシングではなく、感染者やその家族、そして接触者へとその相手が拡大され、PCR検査を受けただけでも排除の対象として扱われるということです。感染防止の対応と語られても、そこには見えないウイルスへの恐怖感から、人間が人間を排除したり攻撃することへと確かに繋がっています。


 人間が人間を排除する問題は、コロナ以前でもありました。経済的な「生産性」という尺度で、人間の命の価値が値踏みされ、また命を奪う形の事件になった例です。コロナ禍において、人間を排除する論理は正当化・加速化されていく恐れがあるでしょう。