【9月6日付】鳥取県被爆証言 浦田昌則(88) 広島で被爆

 3日か4日たって顔がかゆいので、母親に包帯を取ってもらうと、火傷した顔にいっぱいウジが引っ付いていました。


 母親にワリバシで毎日取ってもらった。夜取ってもらうと、幽霊におうとるようだと言われ、昼に取ってもらいました。毎日湧いたので全部取るのに7日か10日かかりました。


 母親は下宿屋をやっており、地元や島根の人が10人ほど下宿していました。今度は食べる物がなくなって、農家に行って着物と米を交換してもらっていましたが、それも尽きて、油を搾った後の大豆かすを焼いて食べましたが、食えたもんじゃない。


 下宿人には里に帰ってもらい、9月には父親の実家の鳥取県泊村(現湯梨浜町)に引っ越すことになりました。


 呉から姫路を通り播但線で和田山まで行って鳥取県に入りました。岡山も姫路も空襲で焼け野原になっていました。


 倉吉工業に転校し、保健所の検査で白血球が半分になっていると言われました。


 風邪をひくと2カ月も3カ月も治らず、怪我をするとなかなか血が止まりませんでした。私の体が弱いので、父が体を鍛えようとして近所の人に頼んで、夏休みには山の材木出しをしました。泊小学校の敷地の工事があったので、トロッコを押して体を鍛え、だんだんと体力がついてきました。


 学校通いは、包帯をとればケロイドの真っ赤な顔をしていて、負い目や引け目がありました。


 高校には6年通い、倉吉高校機械科の卒業となりました。


 卒業後は紡績機械をつくる会社に入って事務をしていましたが、教育長をしていた叔父さんに「ちゃんとしたところに就職しろ」と言われ、国鉄を受験することにしました。


 合格して吹田機関区に配属され、機関士助手を務めました。吹田、浜田の機関区を経て、鳥取機関区に機関士として配属になりました。


 国鉄民営化(1987年)のときに54歳で退職しました。鳥取機関区で助役をしており、職員に退職勧告をすることになりました。助役たちで話し合って「自分たちは50過ぎとるのに辞めてくれとは言えない」と退職することにしました。その後、別会社に勤めて定年退職し、親の代から受け継いだ田畑で百姓をしてきました。


 日本は唯一の被爆国ですから、被爆の実相を世界に示して核兵器を使おうとする国に対して、やめさせる役目があります。日本がやるべきことは、軍事力ではなく、話し合いと外交で紛争を解決することです。